欲しい。買わない。憧れるだけでいい。SONY RX1R III
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今日のテーマはSONY RX1R IIIです。
渋谷の路地に、誰かが何年もかけて積み重ねたステッカーの壁がある。新しいやつの下に古いやつが透けて、めくれて、また上から貼られて、地層みたいになっている。先週その壁を Hasselblad X2D 100C で撮った。中判の馬鹿でかいセンサーが、糊の浮きから印刷の網点まで全部拾ってくる。撮りながら、僕はまた例の感情に飲まれていた。あれが欲しい、という感情だ。
正確には、SONY RX1R III が欲しい。2025年の夏に出た、約66万円のフルサイズ固定レンズコンデジ。手の中のX2Dを構えながら、別のカメラのことを考えている。我ながら病気だと思う。
僕はこれまで、高い固定レンズのカメラや限定系のカメラを、所有しては手放し、欲しいのに我慢する、というのをずっと繰り返してきた。Leica Q2 を持っていて、手放した。今は Leica M11 と、さっきのX2D 100Cが手元にある。買っては悩み、売っては後悔し、また別のを欲しがる。この性分は治らない。だからこそ、今日は先に結論を置いておきたい。RX1R III は欲しい。だが、買わない。憧れるだけでいい。その理由を、これから書く。
まずこのカメラがどれだけ異常な存在か、という話からだ。ソニーがRX1というシリーズを最後に出したのは2016年の RX1R II で、それから9年半、ほぼ10年このラインは沈黙していた。みんな終わったと思っていた。そこへ2025年8月、何の前触れもなく復活してきたのが RX1R III だ。型番は Cyber-shot DSC-RX1RM3。Cyber-shot。66万円のカメラに、まだコンデジの看板を掲げている。この頑固さが、僕にはたまらなく愛おしい。
中身は前モデルからの正統進化だ。レンズは ZEISS Sonnar T* 35mm f/2 のまま据え置き。センサーは約4,240万画素から有効約6,100万画素へ。画像処理は BIONZ X から BIONZ XR にAIプロセッシングユニットが加わった。つまりレンズという光学の魂はそのままに、演算性能だけを10年分まるごと積み替えた。比較対象に置かれるのは Leica Q3 43 で、こちらは約6,030万画素の43mm、価格はおよそ110万円する。RX1R III は44万円安い。ライバルというより、35mmという別の場所に一台だけ立っている、という感じだ。光学を守って演算だけを進化させたこの判断が、僕には潔く見える。
ただ、ひとつだけ最初に言っておかないと嘘になる。これはコンデジではない。498gある。サイズは約113×68×88mm、厚みが88mmもあって、ポケットには絶対に入らない。入るとすればダウンの内ポケットくらいだ。重さで言えば iPhone より遥かに重く、α7C II のボディ単体とほぼ同じ498g前後。レンズを外せないという一点だけがコンデジの名残で、実態は「レンズを外せないフルサイズカメラ」と呼ぶほうが正しい。この金属の塊を首から下げて一日歩く、という覚悟が要る。
それでも僕がこのカメラに惹かれる理由は、まず35mmという焦点距離にある。これが効く。Leica Q3は28mm、Q3 43は43mm、RICOH GR IVは28mm。フルサイズや事実上それに近い固定レンズ機を画角で並べていくと、28mmと43mmと、その間がぽっかり空いている。35mmだけが空白だ。そこを唯一埋めているのが RX1R III だ。
35mmという数字に、僕は個人的な傷がある。Leica Q2 を持っていた頃の話だ。あれは28mm f/1.7 のSummiluxで、旅先のスナップでは本当に神だった。広い画角が街ごと飲み込んで、適当に切っても物語になる。ところが家族を撮ろうとすると、28mmは広すぎた。娘の顔だけを残したいのに、散らかった部屋まで一緒に写る。背景が入りすぎる。寄り切れない。Q2を手放す直前、僕はずっと「もう少しだけ寄った画角があれば」と思っていた。もし当時35mmのフルサイズ固定レンズ機があったら、僕はQ2を売らなかったかもしれない。RX1R III は、その9年越しの後悔をちょうど埋めにくる画角なのだ。狙ったように僕の古傷を押してくる。
それからレンズを変えられない、という不自由そのものが、僕には羨ましい。交換レンズを持てるカメラは、撮るたびに迷う。50mmにするか35mmにするか、f/1.4で開けるか絞るか、単焦点かズームか。その迷いがシャッターを切る瞬間の集中を少しずつ削っていく。固定レンズ機は、その迷う余地を最初から奪ってくる。35mm f/2でしか撮れない。だから画角の問いから解放されて、残るのは何を撮るか、いつ切るか、それだけになる。制約が自由になる、というあの感覚だ。
しかも、たぶんこのカメラは適当に撮っても作品になる。これはQ2を持っていた人間として正直に書くが、ピントが少し甘くても、構図が雑でも、フルサイズの大きなセンサーと明るい単焦点が、勝手に空気を作ってくれた。RAWで撮ってLightroomで軽く整えるだけで「撮れた」一枚になる。6,100万画素のフルサイズに ZEISS Sonnar 35mm f/2、そこへBIONZ XRとAIの演算が乗るRX1R IIIなら、同じことが起きるはずだ。光学と演算の合計値が、撮る人間の腕を底上げしてくれる。
ここがスマホとは逆方向なのが面白いところだ。スマホは演算でHDRや肌補正を盛って「記憶色」を作る。後で見返すと、記憶より美しい。一方で単焦点フルサイズが残すのは、現実の空気そのままだ。記憶より美しくはならない。記憶のまま、そこにある。僕は後者のほうが、5年後10年後に見返したとき意味を持つ写真だと思っている。盛られた美しさより、あのときの光がそのまま閉じ込められているほうがいい。
ここまで読むと、買えばいいじゃないか、と思われるだろう。欲しい欲しいと言いながら、なぜ買わないのか。理由は単純で、僕の生活が今このカメラと噛み合わないからだ。
これもQ2を2年持って学んだことだが、フルサイズ固定レンズ機は一人のとき最強の道具になり、家族といるときはほぼ邪魔になる。一人旅で、早朝の誰もいない路地や、光が差し込む窓際や、市場の喧騒の中をQ2を下げて歩くと、世界が撮る対象として勝手に立ち上がってくる。498gの重みは、一人なら苦にならない。むしろ首にかかる重さが「今日は撮る日だ」というスイッチになる。あれは旅の相棒というより、旅そのものを変えてしまう道具だった。
だが家族といるときは話が逆になる。2歳半の娘を抱きながら498gの金属塊を首から下げると、抱っこのたびにレンズが娘の頭にゴツンと当たる。ベビーカーを押すときは邪魔で、公園で走り回る娘を追いながらファインダーを覗く暇なんてない。結局iPhoneで撮る回数が圧倒的に増えて、せっかくの66万円のカメラは宝の持ち腐れになる。僕はこれをQ2で一度やっている。同じ轍を、わざわざもう一度踏みにいく理由がない。
摩擦の予測もしておく。これは所有していないから断言ではなく、Leica Q系とX2Dを実際に使ってきた人間の予測だ。まずバッテリーは1日持たない。Leica Q系はフル充電で約350枚、X2Dで約420枚。高画素フルサイズにEVF駆動が乗るRX1R IIIなら、スナップ実走では公称値の6割前後が現実だと思う。予備2個は必須で、これは66万円に静かに上乗せされるコストだ。それから小型ボディゆえに、夏場の動画の長回しは熱で厳しいはずだ。動画は4Kまで撮れるが、放熱面積の物理的な制約は小さな筐体ほど効いてくる。あとはSONY Creators’ Appの接続が不安定で、撮ってすぐSNSへ、を期待すると小さな敗北感を味わうことになる。これらを全部承知のうえで、それでもZEISS Sonnar 35mm f/2で撮りたいと思える人だけが、このカメラを買う資格を持っている。
では誰が買うべきか。一人旅が趣味で、スナップが本気で、しかも α7系やFX3みたいなメイン機材をすでに持っている人だ。RX1R III を軽装備で世界に出る日のための2台目として迎えられる人。この層には66万円の価値がある。35mmという唯一の画角を、Q3 43より44万円安く手に入れられるのだから、むしろ安い買い物にすらなる。
逆に買わなくていいのは、家族撮影が主用途で、今あるカメラで特に困っていない人だ。498gは家族撮影に重すぎるし、ポケットに入らないサイズは日常使いに向かない。家族の記録を厚くしたいなら、iPhoneのメインカメラに RICOH GR IV を足すくらいの組み合わせのほうが、撮る枚数も持ち出す回数も圧倒的に多くなる。66万円は家族旅行3回分、あるいは娘の教育資金の頭金にもなる金額だ。家族がいる人間にとって、この道具の優先順位はそんなに高くない。
そして僕自身は、3つ目の場所にいる。欲しいけれど、買うべきタイミングが当面来ない人。娘が2歳半の今、家族との時間にこのカメラを持ち込む余地はないし、一人旅の予定も当面ない。買ったところで防湿庫で眠る時間のほうが長くなる。それは道具に対して、はっきりと失礼だ。使われないカメラほど寂しいものはない。
だから僕の答えは決まっている。欲しい。買わない。憧れるだけでいい。
これは負け惜しみではない。買わないという選択を、ちゃんと自分の答えとして堂々と持てることのほうが、大人のガジェットとの付き合い方だと僕は思っている。カタログを眺めて、価格を見て、「いつか」と呟いて閉じる。その「いつか」が来るかどうかはわからない。来ないかもしれない。それでも、心に一台、憧れのカメラを置いておくという体験そのものに、ちゃんと価値がある。所有していなくても、欲しいと思える対象があることが、日々を少しだけ豊かにする。
娘が10歳になって、一人旅に出られる時間がまた戻ってくる頃には、RX1R III はもうRX1R IVになっているかもしれないし、中古で手の届く値段に転がっているかもしれない。そのとき、僕はもう一度この選択肢を眺めることにする。
今は、憧れるだけでいい。
価格・スペックは2026年6月時点。市場推定価格は税込66万円前後(2025年7月のソニー発表時点)、発売日は2025年8月8日。実売は販売店と時期により変わる。